えんじる

縁時流とはを演じると同意時空演劇論でもある。今を生きるとはある種の時空の配役を縁取り縁の時を流れ舞うようなものである。この視点において配役の同一化は課題の同一化とも同意であり、関係性における旬を捉える感性が育っていないと縁時流ことはスムーズに出来ない。今自分は五層の関係性においてどの配役を頼まれているのか? 丁寧に自己対話していないと時空監督の演出や意図が汲み取れず時空大根役者状態となる。この滑稽な配役間違いの姿をアスリと言ったり内部内省と言ったり居着きと言ったり第二カメラとも、またガシャってるとも言われ、宇宙海賊団では指摘されている。縁時流チカラは教わるチカラともかなり関係していて五層対(肉体、ペア、組織、大陸、惑星)から何を学び教われるのか?その自己対話(想念観察)に多角的に影響を受けながら、その配役=ご縁は色音形を変化させながら、縁から縁へ縁起(クウォンタムジャンプ)をしながらうごめき続けている。 なので縁時流この感性はある種の遊び心ともいえる遊行なる感性とも言える。その仮面とも言える無常な今を踏まえ弁え演じきる姿…その姿こそ人間存在の情念とも言える美醜なるイエソドを体現していて、一人称障害者固定点障害者には、その回転の速さや荘厳なるエロスを受け入れられず、いつの旬も縁時きれずに、ただただ時が流れ、その怠惰は無視されるように今宵もその月が…萎れた民らを照らしている。鳥の群れは雲間に詠い、淡い紫苑な朝日を解き放っている。天行健…この今を豊穣に知覚する瞳にしか、縁時流ことの喜び、仮面をつけてこその抑え難い…研ぎ澄まされた情念、怠惰な者にこの揺らぎを知り感じ舞う所作…まぐわい、艶やかな醍醐味を味わえる旬はないだろう。まるでこの地球以外ヒトが棲む世界がないと言い張る、あのファリサイの堅物のように…