ばっかいいちにょ

下腹の胆力を引き出すために理に適った型『下腹重心』を設定する人は内皮的自由(慧露為)を要求するとともに外皮的な型=縛り(礼節)を要求する。

RSELのMaster響は説く…自由と束縛、慧露為と礼節とは自然科学的には相対的なものまさに量子的な振る舞い波と粒でもある。そこには絶対的な束縛=形もなければ絶対的な自由=余白もこの宇宙にはないはずである。鳥も空気の物理抵抗がなくては飛ぶことはない。釘も木片の物理抵抗がなくてはきかない。

Master響いわく礼節の縛りは自由(離見)を激成し束縛打破(無礼講)は自由行動者(霊肉回転、建前と本音の回転)を鮮やかに縁時流者の愉快(余白)とする機微τ雅である。

そもそも守破離の破れ離なる行動(無礼講=慧露為)Φそのものがその縛り圧倒的な守(高度な礼節の美学)そのものの徹底にあったという法則性をD明治の逝きし世の面影を忘れた平成アメポン奴庶民らはもう知る由もない。故にあなた方平成アメポンの礼節なき洋服姿や恋愛心象は無様で遺憾である。

これを改めるには縛解一如でなくてはならぬ。和服の帯は身体を束縛する。しかし帯がなくては腹力がなくて活動自在にならぬ訳である。縛即解・解即縛・慧露と礼節つまり自己対話も自由要求もこの境涯に達しなくてはならぬ訳です。

真の創造的自由(慧露為)というのは極めた型や決まり事=下腹重心礼節の守秘の中から、内に縛られた肚の胆力が自ずから結界を破り…離れ拈華微笑に産まれ来るのが真の自由『慧露為』というものの実相なりとRSEL のMaster響は筆子らに深淵な縛解一如のこの境地を説き続ける。