はちはちせだいのみじめ

87年度、88年度、89年度生まれの世代は、圧倒的に”みじめ”な世代である。

 

特に「88世代」は、世間では「華の88年組」などと呼ばれ、第一線で活躍する女優や俳優、スポーツ選手などを多輩出したことでもてはやされることも多いが、そのごく一部のメッキによって覆い隠された世代そのものの本質は、そこにはない。

88世代が断固として認めたがらないその本質は、常に「正解は何か」を探す思考の中で生きてしまい、正解から外れた「雑味」で遊ぶことができない、簡単に言ってしまうと人としての”面白み”、魅力に欠けていること。

また、既に完成された遊びのコンテンツ、通称”デジモン”そのものに居着いて、その背景にある製作者、”人”にフォーカスすることができない。

だから、無意識に自分達の等身大の魅力では勝負しようとせず、字や肩書きなどの道具、”デジモン”によって何とか自分達のプライドを保とうとする。

そして何より、たとえ88世代がいくらデジモンを駆使しようとも、下の世代、特に5才以上年下の「Z世代」から圧倒的に慕われず、そもそも興味を持たれてないという受け入れ難い事実。

このような88世代の特性は、一体どのような背景から生まれたのか?

 

その一つには、1988年という、当時バブル絶頂期のど真ん中、まさに日本が近代史の中でも最も浮かれ、国そのものが背景無視の軽薄な頭重心になっていた時代に生を受け、その地対、時対の影響を強く受けてきたことにより、常にどこか浮わついた、にじみ出る深みや魅力のない人間に育ったこと。

また、中学に入った頃には、ゆとり教育の影響をモロに受け、学校での評価が相対評価から絶対評価に移った中で、健全な競争、他者から学び合う相対化の文化が衰退し、自身の矮小な「世界に一つだけの花」を愛でることを推奨された反面、その反作用による結果として、プライドとコンプレックスの振り子を振るために他者と自分を、相対化ではなく「比べ」、積み上げた才能ではなく、マスタリーロードから外れたその場しのぎの「チート」によって相手に勝とうとする、にも愛でられることのない自己愛の花が咲いてしまった。

そして、せっかち・野次馬で身につけた技能ゆえに、本当にマスタリーを積み重ねた上の世代や下の世代、特に下の世代の「本物」が現れた時には、「そもそもあいつらは積んでるエンジンが違うから」と、あたかも相対化により下の世代の魅力を賞賛するかのような表現を取りながら、その実は、ただ自身らの積み重ねてこなかった圧倒的な現実、その場その場の付け焼き刃な対応により何も内側からにじみ出ていない自分達のリアルな姿から目を反らすことに必死である。  

その流れで、下の世代に対してやたらと「お兄ちゃん感」を出そうとするが、それがズレた気持ち悪いものにしかなっておらず、下の世代からは煙たがられ、逆に気を遣わせるばかり。 

 

こうした、88世代の特長を挙げられても、大半の88はきっと、「いやいや、そうはいっても、、、」と、またごまかそうとする反応に走るだろう。

だけど、本当はもう、そろそろ気づき始めているはず。

「華の88」などともてはやされ、意気揚々と20代を過ごしてきたが、いつの間にか三十路を迎えた、振り返った時、大人として本質的に、何も伝えられること、教えられることがないことに。

そして、プライドとコンプレックスを隠すための道具であるデジモンしか積み重ねがないゆえに、技能自体も頭打ちになり、さらにZ世代が20代半ばを迎えて社会で頭角を現し始めた今、もはや敵わなくなる未来しか見えないことに。

 

ここからは少しだけ、僕自身の話をさせていただく。

僕は、RSEL寺子屋に入ってすぐの2016年はじめ、今からもう3年以上前から、自分自身も 88世代の当事者として、この世代が抱える「薄暗いけれど、逆に一番深い闇」を突きつけられ、葛藤してきた。

特に、「雑味で外せない、遊べない」88である自分にほとほと嫌気がさし、どうにかしてその「壁」を壊した先に、自分の覆い隠された本来の才能、自分一番感の「柱」があるはずだともがき続ける中で、「ミスタードキュメンタル」、ビン隊長などと呼ばれるようになった。

おそらく、RSELにいる88世代の中でも、ボディフィギュア丸太の濃厚ゆえに、より勝ち負けに敏感で、「どうあがいても勝てない世代」という88の現状に誰よりも納得できず、どうにかして向上することで88の闇から抜け出そうとねじり続けたのだろう。 

しかし、下の世代がより才能を伸ばし始める中で、その88世代としての丸太の向上心にもようやく飽き始めた2019年の4月頃、パーマをあてたことがきっかけで、宇宙海賊ネームがビンから「バン」に変わった。

バン隊長として心機一転、意気揚々とまた向上心が芽生えたかけていた頃に、一つの失恋をした。

これまでにまともな恋愛経験のない自分が久々の本気の恋に右往左往する中で、評判のよかった「バン」の髪型を勝手な判断と自己解釈でバッサリと斬り、しかもそれが寺子屋メンバーに大不評で、名前が「バン」から1ヶ月ほどで「バーバー」に変わった。

そして結果としては玉砕し、その失恋の過程をドキュメンタルとして響社長や寺子屋の仲間たちに愛でてもらい、「引きずらず”次(NEXT)”に行こう」ということで、今度はなんと1週間かそこらで、「バーバー」から「ネックン」に変わった。

 

さて、ここまで、世代とは無関係な僕個人の出来事を並べたように見えるかもしれないが、この一連の出来事と、その顛末を迎える中で、遂に気づいてしまったことがある。

それは、88世代の、ここまで上に挙げてきたような様々な要素を集約して言い表す一言が、「圧倒的な”みじめさ”」であるということ。

そう、僕が一番これまで受け入れたくなくて、一番嫌いな自分は、「圧倒的に”みじめ”な自分」だった。

 

そして、ずっともやもやした88の闇の正体を遂につかみ始めた所で、さらに気づいてしまったのは、その、今までは丸太で向上して突き破ろうとしていた「みじめな自分」という「壁」が、実は最初から、壁ではなかったのではないか、ということ。

そう、これまで、自分の才能、「柱」を覆い隠す、突き破るべき「壁」だと思い込んでいた、その「みじめさ」こそが実は、ずっと探していた「柱」そのものだったのだ! 

そして、この衝撃の真実に気づいた時に、いよいよ逃げられなくなったのは、ずっと葛藤し続けてきた、「雑味のない、遊べない88」である自分にとって、「遊ぶ」とはどういうことなのか。

それは、自分から自主的に「遊ぼう」とすることではなく、まずは人から「遊んでもらうこと」、つまり遊びを「発信」しようとすることではなく「受信」することでしか、雑味で「遊ぶ」ことができないという、88にとっては一番受け入れたくない現実だった。

しかし、思い返してみると、今回のビンからバン→バーバー→ネックンの一連の流れ、その運動性そのものが、色々な流れの中で「遊んでもらった」ことでしかないし、そもそも「ミスタードキュメンタル」と呼ばれるようになったこと自体、ずっと「遊んでもらっていた」つまり「愛でてもらっていた」物語の軌跡でしかなかった。

「遊ばれる」ことは、決して「バカにされる」「ないがしろにされる」ことではなく、むしろ愛でられ、記憶に残ることなのだ。 

 

その事に気づけた時、ようやく想い出したのは、実は僕自身が昔から、「みじめな」人のことは、決して嫌いではなかったということ。

いやむしろ、「どうにかしてやりたい」と無性に感情が掻き立てられるほど、実は愛でて、大好きだったこと。

その時にようやく、「みじめな自分が一番嫌いな自分」が裏返り、「みじめな88である自分」を承認することができるようになった。

 

「みじめ」は、「あわれ」とは違う。

頑張って頑張って、だけど報われないのが「みじめ」であり、ただの怠惰は「みじめ」ですらない。

「あわれな人」には周りに人がいないが、「みじめ」にはそれを愛でてくれる人がどこかにいる。

88世代は、何らかの形で必死に頑張っている人はたくさんいるけれど、その頑張りが、ことごとくデジモンになっていて、下の世代から慕われる魅力的な姿ではない、

けれど、だからこそ”みじめ”になれる。

そう、RSELが示す”みじめ”は実は、決してさげすみや否定的な表現ではなく、とてつもなく奥行きのある球体感であり、ベホマズンなのだ。

 

けれど、「”みじめ”な88」になるには、”みじめ”であることをとことん受け入れ、縁時なければならない。

でないと、ただの”あわれな88″のまま終わるだけ。

そして、”みじめ”な88になるということは、88世代が下の世代に残せる記憶、見せられる背中は、”みじめ”な姿以外に何一つなくて、下の世代にこそ遊んでもらうしかないと、明らかに見る=あきらめること。

「何か見せられる背中が他にも あるはず」と、ズレたお兄ちゃん風をあきらめられない「あわれな88」は、本当の意味でカッコ悪くて箸にも棒にもかかからなくて、何も残せないまま消えていく。

そして、この事に気づかないといけない88世代の当事者たちに限って、このことに気づく感度が絶望的に鈍いし、受け入れるのに圧倒的にプライドが邪魔をする。

なぜなら、それこそが88だから。

けれど、だからこそ、88は世代内でこの事を気づかせ合い、力を合わせなければならない。

 

他の世代が一人で見せられる背中を、それこそ8人揃ってようやく見せられるくらいに思わなければならない。

みじめは、みじめだと気づけば抜け出せる、といった類のものではない。

体感だからこそ、みじめはどこまでも続く。

それは、上の世代からも下の世代からも圧倒的に教われない、学べないという自分たちの現実から目を背けずに、それでも教わりたい、学びたいという姿勢を忘れないことであり、さらにそれでもなお、圧倒的に教われないみじめな自分たちに、どこまでも爽やかに絶望し続けること。

そんな、ものすごく地味だけど、永くて険しい戦いだからこそ、一人では決して勝てないし、仲間が欲しいんだ。

それが、僕が#1336のラジオで吼えたことの真意だった。

 

そしてここまでの話は、88世代に限った話ではない。

その前後の87世代、89世代も、88との重なりはとても多い。

自己文脈に居着く雨男・雨女な87世代、最初の平成生まれでスカして本気を出さず、上と断絶した89世代と、各々特色はあるけれど、上からも下からも教われず、下の世代から慕われず、そしてそんな世代が抱える問題から目を反らそうとする、そのスカシっぷりは、どの世代も変わらない。

「個人の問題」ではなく、「世代そのもの」が抱える亜空間知能として世代で組んで取り組まないと、この問題は決して解決しないし、でないと下の世代に引き継いでしまう。

下の世代が、さらにその下から全く慕われずに苦しんでる姿なんて、絶対に見たくねぇだろ。

それをやってしまったら、本当の意味で世代全体の、そして種族にとっての「負け」だ。

 

だから、世代にもっと居着けよ、87・88・89世代。

個人の問題としてスカシて終われると思うな。

下の世代に雨降らしまくって暗くしてるのが自分達だって自覚を持て。

上からも下からも、特に下のZ世代から真摯に教わる姿勢を忘れるな。

そしてこの世代の人間の中でも、こうしてこの課題にぶつかれるご縁に恵まれたことの運の良さ、僥倖をかみしめようぜ。 

 

さあ、世代を代表して、”みじめ”になる覚悟はあるか?