きゅうえんちゅうてきせかいかん

「和をもって尊しとなす」は聖徳太子が説いたと言われる憲法ですが、これが球円中的世界観の意味とも重なります。ですが、この憲法は仲良くするのは尊いことだという意味だと解釈されますが、それは単純解釈の間違いで本当の意味は別にあるのです。

 

それこそが日本の縄文以前から滔々と輪に沿って巡る円形運動(祭りの原型)そしてそれを包むお椀形ドーム状の放物線(古墳の原型)、その中心となる柱の軸的存在(大黒柱の原型)、このような日本神話が示す型の世界観こそが本当は『和をもって…』の文脈なのです。

 

そして日本神話が示す型による潜在意識教育は、何より中心に集まる凝縮運動(男性性イザナギ)と円形に解き放つ放射解放運動(女性性イザナミ)による因果性が、私達人類の生活世界の最初の原理であること、これを気高き男女の物語によって示している事にありましょう。

 

古代人の生活世界が、男性性や女性性の巡り絡み合いによる因果であることは、そのほか世界中に因果的な神話や物語が存在する史実がその動かぬ証拠であり、その基本的性質は私たちの生活世界に至るまで、もはや遺伝的に保存されてきたようであります。

 

それゆえ、19世紀頃まで私たちは因果的でない変化(デジタル世界)を適確に理解するのが、因果的な変化の理解(身体的類推)に比べると得意ではありませんでした。 はっきり言って、大変不得意なのです。

 

因果的構造のもつ揺るぎなき安定性(天地人)は生活世界の最も根幹に基本的な因果性があることの証拠となっている。

 

天地人の因果性が私たちの生活そのものを支えている。因果的でない生活(偶像、虚崇拝)は、この天地人の神話や物語の因果関係そのものを否定するものであり、それゆえ、男女の神話や物語をもつ私たちの生活世界はどうあがいても因果的で、とどのつまり円形であり柱的であり放物線的であり、その眼差し(瞳の幾何学=球体的)なのである。

 

だからこそ日本の礎は『和をもって尊しとなす』だったのであります。

 

現代的に翻訳すると憲法第一条【おたがいの男性性女性性が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗すること偶像崇拝(因果関係の背景無視)のないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。】となるだろう。

 

そして「上(男性性)も下(もと女性性)も因果関係に無闇に抵抗せず和らいで話し合いができれば、何事も成し遂げられないことはない」という言葉で聖徳太子の憲法は締めくくられています。まさに運動性における因果的な対話の重視こそが球円中的世界観であり和の原型であり雛形なのです