ねおせいへきろん

従来の性癖、フェチズムといったものは単純なジェンダーが固定された男性性と女性性の性的魅力への個人別の向を指していたが、RSEL寺子屋ではそんなジェンダー固定による鈍化した性癖に過ぎないものを吹っ飛ばす。『〇〇であるべきものが男ぽっくカッコいい』、または『〇〇であるべきものが女ぽっく可愛いい』などと言った一般論で人体から滲み出る性差は語れないと学ぶ。それがネオ性癖論である。

 

このネオ性癖論では男性器や女性器の有無だけでなく、1人1人の性的美意識は乳児性、少年性(弟性)、少女性(妹性)、お兄ちゃん性、お姉ちゃん性、母性、父性、祖母性、祖父性といった9つの性差の混ざり合いによって、一人一人個性豊かに分布されてると説く。

 

これは兄弟や姉妹間で産まれた順番などに関係なく、個々の人体の物語(記憶と記録)の五層対にて影響を受け続けているものである。

 

それぞれの重心(身体感覚)とも似た要素をもつものであり、故にこのネオ性癖論的な触感をベースに、人は人に魅力を感じ、惹きつけられる仕組みをもつ。この仕組みこそが、なぜあの人はあの相手にあぁも魅力を感じるものか?そのBFの相性以前のものとして、このネオ性癖論は位置している。

 

このネオ性癖論は相補性の引力が何よりも強いので、自分の持ち合わせてない不足している性差を補完するように、人は人に惹かれ合うようになっている。ある種の恋愛力学としても把握されるものでもあり、性差の相関性(類友)においては、仲間探しや会社選びなどにも応用出来たりもする。

 

このようにネオ性癖論における相関性の強い同類の性差をもつ者同士では、互いにすぐ理解しやすく、落ち着いた関係を築きやすい。

 

しかし同種ゆえに強い性的魅力のシンパシーは感じにくいので、同や友達には向くが、互いの才能に化学変化を起こす触感は生まれにくいという性質をもつ。これは恋愛や異性間だけに限らず起こるネオ性癖論の基本作用である。

 

例えて言うなら、中学生の少年達が互いの少年性を類友で共鳴させサッカーを楽しんでいても、その中のサッカーセンスの高い少年の1人はいつまでたっても才能は開花しないが、彼らとの少年性なるお付き合いを切断し、海外クラブチームに留学し、お兄ちゃん性の強い先輩や父性の強いコーチや監督と関係性を作れば、彼の才能に化学変化が起こり、いずれ本人は逞しいお兄ちゃん性や父性、またはお姉ちゃん性や母性(キャプテンシー)を開花させる事だってありえるわけである。

 

このようにネオ性癖論はある種の個人の天才性、才能開花論においても大切な要素でもある。

 

そうあなたがあなたらしさを発揮するにおいても、ネオ性癖論の相補的な相性作用は、とてつもなく大事な教養であります。

 

ネオ性癖論と従来の性癖論との相違は、あなたの性的魅力は不特定多の皆んなのためにある訳でない事実。それを強く魅力と感じ、相補される相性者のためにあるという、その背骨の真実である。

 

だからこそ不特定多が決めた曖昧な性差なる男らしさ女らしさなんてものは、個々の人体の魅力の微差を無視した偶像崇拝だと、世間の広告が生み出したセクシャリティの虚像をブッ飛ばしてる所にこそ、このネオ性癖論の素晴らしさ人体賛美があります。

 

そうです、ネオ性癖論においては単純なオス、メスがいる訳ではないのです。その男の物語、その女の物語、それぞれの神話、かけがえのない記憶、性のストーリーがその背骨にこそあるのです。

 

そうやって私たちは、間違いなく、その背骨で、乳児を繰り返し、少年や少女を繰り返し、乙女や青年を繰り返し、母や父を繰り返し、祖母や祖父を互いに繰り返している。その螺旋の軌跡が奇跡のように宿る、かけがえのない背骨をもつからこそ、どうしようなく互いに惹き合うものが、ダイバーシティかつダイナミックな運動性を、DNAが分かち合い持ち合っている。それがネオ性癖論である。

 

こうして時空恋愛の美意識が、ネオ性癖論によって種族レベルでリズミカルに更新され続けている。

だからこそ、、、

 

再び、あなたにズキュンされる…

   

         いつか  どこかの 相似形

 

          その運命の時空螺旋を

 

       その背骨の中心に”指し示す”

 

『それでも好きだと…巡る、、、木人椿の風の音』