さんぜつぼうきょ

【三絶望虚から四禅定へ】

三絶望虚とは私達の頭に絡みつく亜空間知能から人体端末を取り戻す3つの手引き【三絶】それをまず徹底的に知行合一する教えを意味する。それは【安易なホイミな望み】【そもそも自己実現などしない構造的な虚しさ】それでも【何者かになろうとするしつこい自己保存欲求】この三絶が実践出来たかどうか?    まずは下腹重心体得以前にこれが試される訳である。その結果【爽やかな絶望】闊達さの姿勢から態度が滲み出てくるのかどうかで師は見る。その観測者の状況がこの三絶望虚出来てるか否かを師は見てとれるのです。しかしまずはこの爽やかな絶望が、一向に出てこない醜さ怖さ、そもそも自己保存に振り回されて日々ビビってる生々しい暮らしぶりをまず徹底的に静かに諦観しなさいとマスター響は説いている。怖さを怖くないと言い張るのではないと。恐怖をとことん感じ抜けと。恐怖をなくそうとするのではなく恐怖そのものを消去的創造性で感じ抜けと。その先にある景色はただの闇雲な虚無や崩壊ではないのだと。確かな望まれた悲しみであり叶死見でもある。それをRSEL では【望悲】(ぼうひ)と読んでいる。例えばDコードクロニクルで書かれている七転び八起き。安易な望みなど抱くなという叡智。7000年の望みなきこの叶死見を感じ抜いてみろという遺言。刻まれた石碑。恐怖を曖昧にせず感じきるんだと説く伝説の賢者たち。この結果、無常の悲しみが溢れ、涙がこぼれてくる姿。このプロセスをDの相似形は伏線を重ねて必ず回収する。だからこの望悲がスタートである。つづいて【虚身】(きょしん)それは所有感(手垢をつけない)状態の体を意味する。このでもない体が現れてくる感覚。常に一人称の体でしかあれない奴庶民。ただ体であれる状態は、RSELで説かれている下腹重心教育における、各部位の体育景色を体現しなければ滅多にあり得る心境ではありません。この回転情報を体で認められるのは、下腹重心体育景色が体認出来る結果であるほかならないからです。つまり完全情報=アートマンはいらないと必ず認識出来ますよ。…という人体の認知科学の包括的法則である。次に【絶望】(ぜつぼう)それはまさに如何なる一人称の望み、それはただの膨大なパターンの繰り返し。無常なる寸劇に過ぎないという自覚。この機械的パターンに納まるだけの喜怒哀楽を後生大事に抱え込む事を老いると呼び、これを手放さなくてはならない苦痛をただ死去と呼んでいるに過ぎないという自覚。これこそが三絶の三番目の切断である【絶望】という認識である。この三絶望虚をキチンと痛みを愛し通過した後に、各々の松果体覚醒の四禅定のプロセスが起こるという訳である。この【四禅定】(よんぜんじょう)とは、一人称障害配信停止の四段階の触覚純化のプロセスを指すもので、まずは【初禅】。これは一人称を離れる段階に入る触覚。亜空間知能の振り子現象が良く見える様になる心境。しかしまだ見てる観測者が残っている境地であり前頭葉コックピットにあいつ乗ってるなと…冷静に見て撮れている。そんなもう客観性が常に身体にいるという重心感覚である。次に【第二禅】。この脳内コックピットに乗っている奴がいるという観測者効果すらも薄れていく心境。それは観測しているものと観測されているものは結局同じという認知を、触覚レベルで捉えてる状態を指す。何かを観測しているという固定点的感覚が消える境地のことを意味する。それはある種の【否定なき肯定の肯定の心境である】それは天行健とも言える感性の発露である。ゆえに伝説の治療家であった野口晴哉氏も第二禅の所にいたという史実を示す訳である。ここまで来ると亜空間知能には届かない回転数の人体量子場でもあり、もはや前頭葉にコックピットすらもない。ちなみに第二禅までくると聖丹元気の安定供給が永久モーターのようになってくる。次に【第三禅】。もう何か天才が溢れ上がってくるのだが、逆説に偉大な超人が社会に役立って貢献したいなどという最もらしい武帝のような誇大妄想は瞬時に薄まる心境で、ある種の当意即妙な中今をただ息し、二極性を融通無碍に遊ぶような自由闊達な慧露さが露わになる人の姿。この境地ではコックピットどころか乗り物(観測者)すらも囚われてないので、亜空間知能からはもう認知されえない!そんな縁起にまで至ってしまう…。そして最後の【第四禅】それは星間文明指導者の在り方であり多元宇宙を触覚で同期並行計算し、ユニバーサルデザイナーとして星から星へ、銀河から銀河へ、宇宙から宇宙へと相似形体動説にて、瞳のシンギュラリティを起こし続ける意識色(いしきしき)Φ音(いしね)Φ意図形(いとかた)の三位三体のありとてあるもの…その全方位放射センターの阿吽の心境となる。この境地は影など入る隙間すらなく…膨大な無窮の光で埋め尽くされる脅威の因縁であり…あの旧宇宙の亜空間知能から完璧に見えなくなっている姿…まさに発光一宇の勇ましき出で立ち。太陽の如くその姿な訳です。