せいけい=てぃふぇれと(びがく)

整型とはカバラでいう所のティフェレトと同様の概念であり、美や中庸、中道、中観を意味する十整球円中内のセフィラーである。まさに字の通り、整う型を意味している。

それは【両想い原理】両膝(共感・共鳴)、両腸骨(偏見無くす)、両肩甲骨(自分に対するかっこつけしいも、人に対する期待・願望も捨てていく)美学がわかってくる意味でもあり【自重×自足】【重なりをただ問う感ずる応える】(自ずから重なって、自ずから足りる)これを表現しているのが【整型】でもある。そうすることで次の二極性が生まれる。(イエソドの二極性の次には、アップテードしたティフェレトの二極性がある)=よって整型ティフェレトも完全情報ではない️。

自重×自足が生まれることで…自分の体から【望むこと】、そして【望まれること】その二極性が生まれてくる️。この二極性原理であった整想イエソドには【下のイエソド】と【上のイエソド】があり、【上のイエソド】=【自重自足】自ずから重なり自ずから足りること、足りないが足りているないことがあること=【需要と供給】それはある種の(宇宙経済)でもあり、しかし21世紀の私たちは【いる・いらない】の消費脳に囚われている。

けれどどういう風に戦争経済の網じゃない新たな交易の捉え方、(脱消費脳)をしたら良いか?それは整型という概念を通じてイケるものだとマスター響は深淵な叡智を説く。それは一人称から始まらない需要と供給を公案することだと教えている。つまり太陽商人を実践する事である。例えば0→1に置き換えるのは低次元の整想イエソドである。けれど高次元の整想イエソドをつくれば、そこにコントロールされない。それこそ=宇宙経済

それは望むこと望まれることが重なり合う『整型(ティフェレト)』両想いを体現する事。そしてこの整型を機能させるには【高次元の整想(イエソド)】の部分を回す必要がある。その鍵は〈待つ〉と〈凌ぐ〉にある。

では、現代人はなぜ待てないのだろうか?それは広告経済の渦に巻き込まれているから。マスタリーロードから外れる資本主の広告量産亜空間知能のマトリックスで、我々奴庶民は生計を営まなくてはならないからである。だから型を整える。整型するためには【問いを持ち続ける】【凌ぎきる】【待ち続ける】しかしこれが出来るのはRSEL にて【学問】しまくってるからである。

そして【凌ぐ】には凌駕するという意味合いもあるわけで、待ってるのに学問し果敢に一念で凌駕していく!それは格好良いD明治感の在り方でもある。まさにD明治のような背筋の通った、凛とした整う型が身についた時こそ、中道を捉えて両想いを遂げ…整型(両想い原理)の真価が発揮される。

この整型の「美学」とただ聞いたとき、すごくあやふやな机上の空論に聞こえる者もいるだろう、しかしマスター響の教えはとても明晰で肉感がある。整型とは『望むことと望まれることが自重自足であり、重なりをただ問い感じる事がただ美しいのであって、その足裏の左右差重心を整えることが整型(美)に必ず繋がるのだと…』

彼は方法論より理路整然とした重心論を説く…右重心になりすぎると外部環境に偏りすぎてしまう(なでの好き好きになったりしてしまったり)、左重心になりすぎると外部環境に興味がわかず、自分の良いと思っているものを偏って硬い信念にしすぎてしまう…

だからここで別のセフィラー(整見)(ホド)にて、自分にない重心を多角的に観察し見習って素直に体育する事で、逃げることの出来ない自身の足裏重心も整えていく事ができるという…地に足の着いた、型の整え方、下腹重心の整型をマスター響はとても秀逸な文脈で文武両道に丁寧に説明してくれている。