せいもん=へせど

整問とはカバラで言う所のへセドと同様の概念であり『母性原理』を示し人生への問いを整えるとその時空の正面の門が母性原理の如く開くことを意味する。そしてその整問人体シンボライズは裏ももである。

整型から学び得る『重なりをただ問う感ずる応える』がキープできた上で、262にて整理された整った問いを持つこと。それは自分の肚の要求が出てきた時、望まれてるか?また望まれるものになれているのか?それをメタ認知する事それが『もう一段高解像度なセフィラー『整組』から呼びかけられる境地』という。

整組には外部環境の組織、体という組織その二つの整組がある。体がビンビンくるのは体認整組である。しかし体がビンビンとこない人でもこれを見つけられる方法は外認整組!その環境の把握にこそある。日頃から頭をカラにして【問い】を持って周囲の風景を観察する習慣をもつ。するとシンクロニシティこういう偶然の一致なるサインがどんどんと未消化な過去からやって来る。

けれども自分の事で頭いっぱいで内部内省していれば、そもそも五層対のサインなんて読み取れず自分の頭の世界だけで精一杯で、たとえ過去の縁起が再び来ていたとしても認知できずただ通り過ぎているわけである。運勢や世界線を読み解くのも【外認】!もちろん【体認】もある。自分の体の感覚と外に起きる現象で、量子の揺らぐ世界線を読みとることはとても大事な感性だとマスター響は教えてくれている。

この人体端末理論の五層対教育で唱えてることは、この体認と外認を上手く使いこなせという時空の高度な教えでもある。そのための下腹重心稽古でもある。蹲踞プログラムをやってる時に問いを持ちながらやることは、すごい的を得ることだとマスター響は説いている。その時に体の臍にインプットさせて、あとは普通に頭をからにし、ぽか〜んと生活してるだけでそれが繰り返し出て来る仕組みだ。考えることなく、パンッ!と出て来る感じである。そうすれば相似形で世の中が動いていることは生々しく体認外認で出来るようになるわけである。

後から振り返って『あれは!?』と思い思考を重ねるのは低解像度でとても粗く、じつは危ういゆえにあまり信頼しない方が良い。後追いはダメ。追認もダメ。二念もダメ。その瞬間に『あっ!!』とくるものその一念発起こそ勝負である。迷いなき感覚。

そのためには腰と裏モモを強化しなくては体現されえない。その姿勢と観測の融合が鍵であり、整問という『問いの立て方』をマスターするためのこのセフィラーの真である。