せいそう=いえそど

整想とはカバラでいう所のイエソドと同様の概念であり、極性を整える想い『二極性原理』を意味していて、ある種のYin&Yang時空の陰陽を活かしなさいの目印となる概念である。全ての物事には二極性があり電子と陽子の正負の作用反作用の法則から離れて現象化されてくるもの以外我々には知覚(想う事が)できない。この太極の法則(対極)という世界観を人体端末内で現しているのが、右半身と左半身でありそれを支持する左右足裏、足指、足首である。この人体姿勢の左右差その重心の調整こそが十整球円中の整想という整型(ティフェレト/美学)の感受性へと直結し繋がり連鎖していく鍵となっている。だからこそ二極性を端から端まで強く認識する事こそ、実は想い(知覚)を整える道である。それをこの整想のセフィラーは明確に現していて、この二極性のバランス(人生の正解=下腹重心=整型)を自力で見つけようとする行動がすでに誤努力である事を実は整想の叡智は暗喩してくれている。そうバランスなんてものは頭の思考2念(亜空間知能)で見つかるものではない。だからまず肚から湧き出す一念の極なる想念蹲踞にて想いっきり堪能し、そこから止むに止まれず産み出される反作用(痛み)を愛すということ。その痛みを妨害ではなく飛躍への活力ジャンプ台にすること。だからこそ怖れず想いの振り子を感じきること。それこそが二極性の痛みを愛すジャイアントステップ…それこそ極性が整った想念。つまり整想という十整球円中のセフィラ―が示す概念の意味である。さぁ怖れずにこの時空の二極性を出迎えて引き裂かれていこう︎︎︎臍の想いその種に根を下ろさせ、芽を出させ、大輪の花(整型=美学)を咲かせる獣の道は…この整想という雅な揺らぎ(嵐や強風)の肯定にこそあるのだから…